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東吾嬬小学校
東吾嬬小学校

東吾嬬小学校の詳細情報
| 所在地 |
東京都墨田区立花4丁目22-11 |
MAP▼ |
| 交通 |
東武亀戸線 東あずま駅 東武亀戸線 小村井駅 東武亀戸線 亀戸水神駅 |
大島秀男
- かって東京湾の海は、上野の山、王子赤羽、市川国府台と連なる台地の下までよせ、湾に注ぐ利根川も河口は大分奥の方であった。大利根の流れは絶えず上流からの土砂を運び、堆積させ洲を作っていった。正倉院に残る養老5年(721)の「養老戸籍」に、現在の柴又・小岩と推定される下総国葛飾郡大嶋郷島俣(しままた)、甲和里(こうわり)の人々の記載があり、近年の発掘調査で多くの出土物もみられている。市川台地寄りにまず州・島(柴又・小岩)ができ、台地をおりて人々が住むようになったものであろう。
武蔵国から下総・上総国への官道が陸路となる前は、吾嬬神社に祭られている弟橘媛(おとたちばなひめ)の伝説にもあるように、相模国観音崎の走水から東京湾を船で木更津に渡り、北上して下総国国府である市川国府台に達していた。この行程での中央に近い地域が上総であったわけである。
時代が下がると利根川の本流は、今の綾瀬川すじを流れていたと考えられ、墨田区墨田あたりが河口となり、隅田・寺島の地域が州・島としてできてくる。隅田(州田)や寺島の地名もその生成を物語っているし、対岸の汐入・真崎・石浜等の地名も、その様を示している。
宝亀2年(771)上総・下総への官道が陸路に変更されて府中から市川国府台へとつながると交通量も増大した。承和2年(835)の太政官符には、「武蔵下総両国堺、住田河4艘、元2艘今加2艘、右河等崖広遠、不得造橋、仍増件船。・・・・・・」とみえ、渡し船を2艘から4艘へ加増したことが記載されている。
ここに初めて住田河(隅田川)の渡船場が歴史上に登場する。元来、この流れは利根川であったが、住田(州田・隅田)のほとりを流れることから、下流部を住田河(隅田川)と呼んだものであろう。墨田(区)は最北端の墨田(隅田)・東向島・堤通あたりから、渡船場を中心に宿場的要素の強い農村として開かれて行ったことが伺える。
隅田の渡しの交通量が増大する頃には、河口は更に下って、現在の銅像堀公園の高速道路入口である旧銅像堀のあたりとなったようである。
かってはこの銅像堀から十間橋(北十間川)へ通じる古川が流れ、その名残りは本所・向島地区の境となっていた。古川の右岸は当時の葛西領の海岸線と考えられ、その生成を示す地名として、須(州)崎、請(浮)地、押上(風濤現象)、小村井(江)、平井(江)が連なっている。更にこの隅田川の河口に土砂が積もって細長い島が形作られていく。
現在の長命寺あたりから両国橋のあたりまで伸びていた島で、牛の横臥する姿に似ていることからか、牛島と呼ばれたのがそれである。