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第一寺島小学校
第一寺島小学校

第一寺島小学校の詳細情報
| 所在地 |
東京都墨田区東向島1丁目16-2 |
MAP▼ |
| 交通 |
東武伊勢崎線 曳舟駅 東武伊勢崎線 東向島駅 京成押上線 京成曳舟駅 |
大島秀男
- 寺島
江戸時代の寺島村は、現在の東向島の全域と、墨田、堤通、向島、八広、京島の一部にあたり、向島地区の大半を占めた村落でした。開発は古く、応永5年(1398)の史料にはすでに「寺島」の名が登場します。
村には蓮華寺や法泉寺、鎮守の白鬚神社などの寺社が建てられ、信仰の拠点として栄えました。寺島の名前の由来は、この「寺の島」からきていると伝えられています。文化元年(1804)には、佐原鞠塢が向島百花園を開き、すでに花見の名所としてにぎわっていた墨堤とともに観光スポットとなりました。
佐原鞠塢(さはらきくう)が開いた向島百花園(現・墨田区東向島)は、江戸後期を代表する名園の一つと言われています。その名が示す通り、百花園は、四季を通じて様々な花が咲き乱れる名所として知られ、江戸の人々の遊覧スポットとして有名でした。
また、それだけではなく、大田南畝(おおたなんぽ)や大窪詩仏(おおくぼしぶつ)等、江戸後期文化を担う文人墨客がここに集い、当時の最先端文化の発信源でした。
しかし百花園の文化は、佐原鞠塢等、文人達の独創的な力により、この地域に突如として芽生えたわけではありません。百花園だけでなく、隅田川東郊一帯は、文人達が集う数多くの名園が散在する、江戸郊外の緑園地帯とも言える地域だったのです。
「御成座敷」は、百花園創設当時、百花園に集うお客様のために、酒井抱一が設計したと言われています。座敷は、この地域で「水塚」といわれる、隅田川の洪水に対処するため、池を掘り、その土で塚(基壇)を築いたものの上に立てられています。
この建物は、11代将軍徳川家斉公がお成りになって以降、「御成座敷」とよばれ、多くの賓客をお迎えしました。その後、安政の大地震で倒壊して後、再建されましたが、この二代目の建物は東京大空襲で焼失し、昭和36年に集会施設として再建されました。さらに、この建物も傷みが激しくなったため、昭和61年に改築され現在の建物となっています。
また、当時の江戸に暮らす人々は、日常の憩いを求めて園芸に熱中していました。上は大名の庭園造りから下は庶民の鉢植え作りに至るまで、その熱狂ぶりはまさに現在のガーデニング・ブームの先駆けをなし、人々は鑑賞用の植物を求めて、競って郊外に繰り出しました。
すでに江戸に出荷する蔬菜(そさい)類の栽培で成功していた隅田川東郊の農民や町人達は、こうした需要に応じ、園芸植物を栽培する「植木屋」として発展し、やがて自らの所有地に開放庭園を整備し始めます。亀戸梅屋敷や堀切菖蒲園、本所四ツ目芍薬(しゃくやく)園(牡丹)園など隅田川東郊を代表する花園の成立は、こうした「植木屋」の発展と深く結びついています。